京都御所の正殿の紫宸殿の前庭
 に植えられていた植物からきた
 言葉で その名の通り天皇から
 見て左(つまり向かって右)に
 桜、右(向かって左)に橘が
 植えられており
  左近桜(さこんのさくら)
  右近橘(うこんのたちばな)
 と呼ばれ有名になりました

 京都御所は明治に東京の皇居
 (江戸城)に天皇陛下の住居
 が移るまで 陛下の生活の場
 でした
 
 その京都御所の内裏に紫宸殿
 という建物があり 即位の礼
 等の公の政(まつりごと)が
 執り行れる場所でありました

 現在でも 3月3日の上巳の
 節句(ひな祭り)で飾られる
 ひな飾りには この名残で
 桜と橘(みかん)の木が飾ら
 れているのが見れます

 現在は 花といえば「桜」
 の事をさします 本でも
 花が咲いたと ただ書くと
 これは「桜」の花が咲いたと
 いう事に今でも決まり事として
 続いております

 ですが 桜が日本の「花」と
 なったのは平安時代からであり
 平安以前は 花といえば「梅」
 の事を指していました

 これは 中国(唐)の影響で
 菅原道真公の遣唐使船の中止
 命令で それまでは中国文化
 の影響が色濃く出ていた日本
 文化も独自の文化にしようと
 中国の国花である「梅」から
 日本固有の「桜」を国花に
 定めた為

 紫宸殿前の左近に植わって
 いた「梅」を「桜」に変更
 したのも 平安時代からです

 日本の「花」が「桜」に変わり
 ましたが それまでは「梅」を
 大切にしていましたので「梅」
 を急に その他の木と同じ扱い
 とするのではなく「花兄」と
 呼んで大切にしました この様
 に植物にも敬意を持つ日本文化
 は 世界に誇れる 素晴らしい
 文化であると思います

 余談ではありますが 奈良時代
 後期に この紫宸殿の「梅」が
 枯れた時がありました

 その時 急いで臣下に変わりの
 「梅」を探して来いと勅命が
 下り 急いで探していると
 形といい大きさもいいちょうど
 良い 梅を臣下が見つけました

 それは ある家の庭に植え
 られていたものでしたが 陛下
 の命令ですから 否応なしに
 持って行こうとしました

 その時 その家の住人が
 「どうぞ お持ち下さい ただ
 これも一緒にお持ち願えません
 か」と 一枚の短冊を梅の枝に
 結びつけました

 植え替えが終わり 陛下も気に
 いり 近くで眺めていたところ
 短冊が付いているのに気が付き
 ました
 そこには 次の様な和歌が詠ま
 れていました

「勅ならば いともかしこき
 うぐいすの 宿はと聞かば
 いかが答へむ」

 要約しますと

 「陛下の勅命ならば喜んで
 お差出しいたします ただ
 毎年 この梅に来ている
 ウグイスに 私の家はどこに
 いったの?と聞かれたら
 なんと言って答えたらいいか
 お教えください」

 その当時 字の読み書きが
 出来る人は少なく まして
 「和歌」で抗議の意を表せる
 人など あまりいません

 陛下は激怒して この梅は
 どこから持ってきたものかと
 臣下に問い詰めたところ

 歌人で有名な藤原定家の娘の
 家であった事が判明し 臣下
 の無礼を詫びたという逸話が
 残っています

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